バンドリーダー系高専生の自己啓発

高専の2年生です。より良く生きるにはどうしたらいいか、幼少期から純粋に疑問に思っていて常日頃考えています。その疑問を考える上で、感銘を受けた出来事をこのブログに投稿していきます。

鋼の球体な生き方

鋼の球体

「君は誰にでも好かれる」

「付き合い方が上手い。人がすり寄りやすい」

「優しいんだな」

他人から見た僕の直近の人格像はざっとこんな感じだ。「鋼の球体」として生きることを意に決した結果なのだろうか。

最近自分のライフスタイルの特徴を「鋼の球体な生き方」と言語化できたので、今回はこれを僕の人生になぞらえてアウトプットしていきたいと思う。

心の形

まず僕は人は赤ん坊として生まれたとき、心は立方体のような融通の利きにくい形をしているのだと、幼少期から本能的に感じていた。これが普遍的かはまた別とする。少なくとも生まれた時から理屈っぽい僕には当てはまった。

残念ながら僕には赤ん坊の頃の記憶は全くない。メシを食っては良く眠る人物だったとは聞いているが。

幼少期

本当に問題なのは幼児という黄金時代だ。ここで初めて僕の「立方体のような理屈っぽさ」を実感した。保育園児の頃、先生に将来の夢を聞かれた時だ。僕は返答に困った。

だって働いて僕を育ててくれている親がいて何も不自由なく暮らせているのに、どうして何者かになる必要があるのか?と、ふと疑問に思ったから。

何者かになる必要性を全く感じなかった。あの時は本当に返答に困ったから、直感的に頭に浮かんだ「ごみ屋さん(ゴミ収集車のこと)」と答えたのだった。

するとどうだろうか、「大人」の先生たちは苦笑いした。困った表情で。

ここでも直感で、「あれ、俺なんかマズいこと言ったか」と察したのだ。そこで先生と会話が弾んでいる周りの保育園児たちの言動を観察してみた。

角を削った瞬間

仮面ライダー」や「プリキュア」、しまいにはもはや人ですらない「ムシキング」になりたいと彼らは言っていた。

そういう類の言葉を耳にした先生たちは笑顔になり、心なしか場の雰囲気が良くなった気がした。

「ああ、これが人付き合いか」と、この時僕は確信し、初めて心の立方体の角を削った瞬間だった。

だから幼児の僕はそれ以降、夢について聞かれたら「ヒーローになりたい」と言うことにした。

球体という柔軟に動ける形

勘のいい人はお気づきだろう。

僕の言う「立方体的な心」というのは考え方が極端で理屈的過ぎるということを指し示している。

あの時からなのか、生まれた瞬間からそうなるようになっていた身体だったのか、僕はこの心の角(ある場面での理屈っぽさ)を削っていき、コロコロ転がる静止し難い球体のような形に近づける事で、動きの柔軟性が増し、あらゆる対人関係をうなぎのようにスルッと躱せるようになるのだと確信した。僕はそれをどんどん実践していくことにした。

そうしていくうちに、他者に出会ったらまず先に相手の長所を沢山見抜き、それを吸収して心の角を削るといった発展系の技術も知らないうちに習得していた。

そして僕には上に歳の離れた義理の兄が3人いたと言うのも角の切削速度を上昇させる大きな要因になったと思う。

(こう言う事があったからなのか、僕より歳上だったり、頭のデキとか、回転とかが良かったりする人が好きで堪らない。)

角の削り方

諦めの精神、これに尽きる。いや、何もこれからの人生を嘆いたり、夢を放棄しろとか言うわけではない。なにより「諦め」という言葉はマイナスな意味で捉えられがちだが、本来は「真理を明らかに見据える」という大義な意味が込められている。『幸せになる勇気』よりヒントを得た結論だ。まあ、そのまんまだが。

話を戻す。とりあえず諦めまくればいい。「しょうがない」で結局殆どの話が丸く収まる。こう言う人もいるんだな、人間同士は"完全には"分かり合えないんだな、とか諦める場面は多岐にわたる。要は自分の器を肥大化し、あらゆる物事に対し寛容になれば心の角は自ずと削れると言うことだ。

黒い小さな餅、ドス黒い中くらいの餅

小学校以降も同じように対人関係を凌ぐ予定でいたんだけど、うまくいかなかった。

何故か?

それは形の硬さを失っていたからだった。削ったのはいいけど、その輪郭をそのままに保つ強さが、僕には足りていなかった。分かりやすく言えば、その頃の心は餅で作られていたのだろう。いや、もはや液体に近かったかもしれない。

柔軟に対人関係を切り抜けるつもりが、他者に同調し、ただ合わせているだけになってしまっていた。

言いたい事も言わないし、そもそも言えない生き方をしていた。ただ集団で群れてればいい、と脳死状態に陥っていた。その頃はまあ、目に見えているもの全てがバカに見えてしょうがなかったというバカな生き方をしていた。

友達?にナメられる時も、嫌いな"ヤツ"とか先生に胸ぐらを掴まれた時だって

「お前に俺の何が分かるんだ」とか、「いじられてやってんだから感謝しろよ」とか普通に思っていた。笑

今思うと僕は僕で大バカだったなぁって思う。

まあ、この時期は理不尽を学んだことによって角削りはすこぶる捗ったけど。

鋼の渇望

そうしてバカみたいに中学を卒業して、地元から離れた高専に進学した。割と自由度が高い環境の中、僕はまた人生をより良くするための思考を始めることに成功した。それにより他者に同調する事をやめた。もう合わせることもしたくない。(他者に柔軟な対応をし尚且つ、自分の形を見失わないというのはかなり困難である。これについて取り上げた記事を後日、書こうと思う)そう生きる上では鋼でできた心を持つ必要性を感じた。心は、自分を見失わない、強固な輪郭を保てる鋼のような材質が望ましいと。

自論結論

ここまで書けば結論は述べたも同然だろう。

より自由に、身軽に生きるにはこの、「鋼の球体な生き方」を選択するのが好ましいと、僕は思っている。もちろん自論。これより良い考え方は絶対あると思う。なんせまだ20年も生きていない未熟者のライフスタイルだから。しかもこれは良く生きる上での基礎的な考え方にすぎないと、僕は捉えている。これを知らなかった人が今からここに書いてあることを実践したからって劇的に人生が変わるとは思っていない。

あくまでこの考え方であればインプットがしやすくなるから、同時に人生の質も上がるのだと、そう僕は思っている。

インプットやアウトプットについてはまた別の記事で僕の意見を述べたいと思う。

まとめ

鋼の心を持ちつつも、死ぬまでその角を削り続け、心の形を限りなく球体に近づける生き方。それが僕が主張する「鋼の球体な生き方」だ。

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII